2015年6月30日

Half Life的演出手法の終焉(2015年現在)

Half Life 1との衝撃的な出会いから幾霜月。一人称視点シューターとの付き合いの一旦のまとめとしてこの記事を書こうと思います。可能な限り事実に基づいた事を書く努力をしていますが、筆者の記憶力並びに知識不足による誤解などが紛れている可能性があります。間違いがあれば是非とも指摘していただけると嬉しいです。
なおこの記事にはHL1と2、加えてCoDとBioshock1のスポイラー要素が含まれます。未プレイの方は読まないことを強く推奨します。




Half Life的演出手法の定義


Half Lifeの後のゲームへのインパクトはそれはそれは大きなものでした。プロットだけで考えれば”実験中の事故で異星とのワープゲートが開いてエイリアンが飛び出してきてさぁ大変。政府は証拠の隠蔽と事態の収集のために兵隊を送り込み証拠を研究員もろとも葬り去ろうとする。あなたは研究員の一人として様々な困難を乗り越えて生き残る道を探る”というストレートなものでした。しかしそれをNPCの演技などのスクリプトによる演出、さらにそれらを全て主人公の視点で描ききったことでHL1はプレイヤーを熱中させる物語を作り出すことに成功しています。


もちろんDoomであってもストーリーが存在していましたし、HL1の前にも例えばStar Wars: Dark Force(1995)ではプリレンダムービーを用いてストーリーの説明を行っています。HL1より数ヶ月早くリリースされたShogoではゲームエンジンを使用したリアルタイムレンダリングムービーでNPCとプレイヤーとの会話をカットシーンで描いています。やはり同年リリースされたUnrealはゲーム内で様々なログを読むことでストーリーを補強しています。故にそれまでのFPSにストーリーが全くなかったわけでもなく、HL1はその辺りに革新があったわけではありません。よく言われるカットシーンの有無ですが、HL1では海兵隊に捕まり朦朧とするシーンがあり続編のHL2では冒頭のシーンはカットシーンであると言えます。

カットシーンについてもそれがどのようなものであるかを考えておこうと思います。
カットシーンとはストーリーや舞台、キャラクター同士の対話などを描くために挿入されます。また、しばしばインタラクティブではないことも特徴として挙げられます。ただのムービーであってもクイックタイムイベント(QTE)を追加して操作を要求するものもあり厳密には定義が難しいので単純にFPSにおけるカットシーンは「プレイヤーの操作を受け付けない、あるいは一人称視点が解除されるシーン」であると定義したいと思います。(参考:Wikipedia)


HL2ではレーベンホルムに向かう前のシーンに代表される聞き終わるまで先に進めないような会話シーンが量、時間とも増えました。むしろカットシーンを挿入したほうがいいのではと思えるような場面が増えています。しかしそれでもなお操作可能でかつ一人称視点を固持し続けた事を鑑み、ここではあくまでストーリーを語る際にも常に一人称視点で描かれる点をHL1的手法と定義しようと思います。


Half Life的演出手法を取る作品


前項で定義したHL的演出手法をとっている代表的なゲームにはInfinity Wardがリリースしその後様々なデベロッパーが開発を続けるCall of Dutyシリーズ、そしてほとんどHL1の演出手法の完成形であり極北であるBioshockがあります。

Call of DutyシリーズはHL1的演出手法をとっていることを意識させることは少ないです。複数の主人公による一人称の変化が起こりロード前後の連続性が保たれないことがよくあります。さらにロード中にゲームの設定やストーリーを説明するムービーが挿入されます。しかしゲーム中は一人称視点が解除されることはありません。犬の操作や無人機による攻撃シーンが挿入されたりもしますが、あくまでコンピューターで操っている体で挿入されています。
CoDシリーズはコンソールを中心に大きなムーブメントを巻き起こしむしろCoD的演出手法と言える独自路線を開拓しています。が、ここではあくまでそれもHL1的演出手法を引き継ぐ一つの形であるとしておきます。


Bioshock1は一人称視点である事を徹底的に維持しプレイヤーを主役と同化させたゲームの到達点であり、そして限界点です。
前項で述べた定義に加えHLと同様に主役のキャラクターを極限まで薄くして主人公とプレイヤーの同一化を促し、まるでその世界に自分が飛び込んだ様な感覚をプレイヤーに与えることに成功します。

HLでは半ばマップが向こうに伸びてるからそっちに進むといった感覚も抱いてしまう問題点がありましたが、Bioshock1ではストーリーの進行もゲームの設定として完璧に組み込まれています。おなじみの「恐縮だが」をスイッチとした暗示の存在です。ゲーム内空間ではまともに会話できそうな人がほとんど居ない狂人の街ラプチャーですが、プレイヤーは常に誰かからの頼み事(暗示)に導かれてマップを突き進みます。

Bioshock1は主人公とプレイヤーの一体感を持たせるよう丁寧に演出されていましたが、物語の後半には大どんでん返しが起きます。今まで能動的に動いていたはずだったプレイヤーは、ただ受動的に動いていたにすぎなかった事をはっきりと自覚させることになります。ここでHL的手法を捨て去りました。プレイヤー自身だったはずの物語の主人公はプレイヤーのコントロールを離れて勝手に行動します。これは純粋なプレイヤーへの裏切りであり反乱です。
ここに来てHL1的演出手法を引き継ぎながらそれ自体を批判する演出を挿入し、ついに極北へとたどり着いてしまいまいした。

HL1的演出手法を突き詰めたBioshock1はその演出を批判する形でその終焉と限界を表明しました。


次回はHL1的演出手法を受け継ぎながらも独自に拡張していったCoD的演出手法について考えようと思います。

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